【弾丸対馬】国防のために人工的な運河を開削!?上島と下島をつなぐ万関橋

万関橋おすすめスポット

対馬の上島と下島をつなぐようにかけられた万関橋。

他の離島でも見られるように、陸路で移動しやすくするために近くの島と島をつないだのかな、と思ってしまうのですが、実はこの上島と下島、もともとは1つの対馬島だったんです。

しかし、明治期に島に運河が開削されることになり、それによって分断された上島と下島をつなぐために架けられたのが万関橋

そこで今回は、万関橋が架けられることになった経緯と、実際に訪れたレポートを紹介します。

対馬が国防のために重要な役割を果たしてきた島なんだと実感できる、対馬観光に欠かせない観光スポットです。

どこにあるの?

万関橋は、国道382号線上の上島と下島の間に位置します。対馬空港からは車で15分、厳原港からは30分程度の距離。

上島と下島を行き来できる唯一の道路なので、空港や港から島を周遊する場合、ほとんどの人が通ることになると思います。

運河開削の経緯は?

太古の昔から、大陸との交通の要衝として、また国防の要としての役割を担ってきた対馬。

明治時代に入り、不凍港を求め南下政策を進めるロシアとの開戦に備え、明治29年(1896年)に浅茅湾に海軍要港部が設置されました。そして明治34年(1901年)、帝国海軍主導のもと、艦船の通れる水路を作るために、万関瀬戸(運河)が開削。それと同時に初代の万関橋が架けられました。

その後、明治37年(1904年)に日露戦争が開戦。翌明治38年の日本海海戦(日本以外の国では対馬沖海戦 “Battle of Tsushima”と呼ばれるそうです)に際し、水雷艇がここ万関瀬戸を通って出撃し、勝利を収めています。

時代が時代だったとは言え、地続きの島に軍事目的で人工的な運河を作るという発想に衝撃を受けますよね。結果的には軍事目的だけでなく、一般の船舶の往来も可能だったことから、経済的な恩恵もあったそうです。

戦後の昭和31年(1956年)に2代目万関橋への架けかえがあり、現在の万関橋は平成8年(1996年)に架けられた3代目の橋です。

実際に行ってみた!

そんな万関橋へ実際に行ってきました!

対馬エコツアーさんの浅茅湾シーカヤックツアーを終え、そのまま車で向かいました。

島の面積は大きい対馬ですが、道路はけっこうシンプルで運転しやすい!橋の前後に駐車スペースがあるので、そこへ車を停めて、歩いて橋を渡れます。

写真には映っていませんが、大型のバスで韓国からの団体客の方々がたくさんいました。定番スポットのようです。

今の橋は3代目。

万関橋の全長は約210 m。そして運河の水路幅は40 m程度なので、注意していないと一瞬で通りすぎてしまうくらい、離島でよく見るような風景でした。

万関橋から眺める万関瀬戸。よく見るとコンクリートのようなもので岸壁が固められていますが、何も知らなかったら初めから別々の島だったと思ってしまいそう。

100年ちょっと前、ここを水雷艇が通過して行った当時の軍事的な緊張感を考えると、そこから100年でここの風景も雰囲気も、ずいぶん変わったんだろうなと思いました。

そして、世界中の予想を裏切りバルチック艦隊に大勝した日本海海戦も、その後の歴史も、この運河が開通していなければ、少し違ったものになったのかもしれない、と思うと、改めて対馬が果たしてきた役割の大きさを感じることができた気がします。

見た目以上の重さを感じさせる万関橋

以上、万関橋の紹介でした。

個人的には、自然の島に運河を通すという発想がかなりショッキングだったのですが、一方で、この運河の開通がなければ歴史が変わったのかもしれないと思うと、なかなか深く複雑な思いを感じさせる橋でした。見た目とのギャップがすごい(笑)。

おそらく対馬観光の上で、物理的にも避けては通れない万関橋、ぜひ一度訪れて、その歴史の重みを体感してみてくださいね。

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